驚天動地 高松城水攻め

「鉄壁の防衛ライン・境目七城」VS「天下統一を狙う大軍勢」

高松城水攻め戦いの構図

「中国地方の毛利軍を制圧せよ。」

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天下統一を目指す織田軍総大将・秀吉が率いる大軍勢の侵攻

時は天正5(1577)年。「天下布武」を旗印に天下統一を狙う織田信長は、家臣の羽柴秀吉に命じて、毛利氏の勢力圏である中国地方への進攻戦を開始した。これが世にいう「中国攻め」である。

備前・備中の国境地帯で攻防を繰り広げる織田軍と毛利軍。
天正10(1582)年3月15日、秀吉は毛利軍との雌雄を決するため、2万の大軍勢を引き連れて姫路城を出発した。途中、宇喜多氏の兵1万と合流し、総勢で3万にものぼる大軍勢にまでふくれあがった。その軍勢が向かうのは、毛利軍の防衛ライン「境目七城」の主城である「備中高松城」―。

中国攻めのクライマックスは備中高松城へ!

「我が城は決して落とさせぬ。」

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主城 「備中高松城」を守る清水宗治

毛利氏に味方する備中の豪族が守る城の総称が「境目七城」。備前と備中の国境に位置し、毛利軍の重要な防衛ラインとなっていた。北から、宮路山城、冠山城、備中高松城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城の七城で、その主城が「備中高松城」であった。

備中高松城は、低湿地に位置する典型的な「沼城」で、秀吉軍の兵や馬は攻め入ることができなかった。また、城主の清水宗治は忠義に厚い武将で、降伏を勧める秀吉に対して、頑として応じなかったといわれる。地の利に助けられた堅固な城と、死をも覚悟の上で防戦する宗治を前にして、秀吉軍は完全に攻め手を欠いていた。

「水を使って攻めればよいのだ!」

備中高松城の地の利を逆手にとった奇策。黒田官兵衛が進言した「水攻め」

毛利氏の援軍が駆けつける前に、何としても備中高松城を落とさねばならない。秀吉は参謀の黒田官兵衛を交えて軍議を重ねていた。そのとき、黒田官兵衛の進言が、膠着した戦局に変化をもたらす。
「水によって苦しめられ城が落ちないのだから、反対に水によって攻めたらよいのではないか―」

この策を受け入れた秀吉は、直ちに水攻めに向けた築堤に着手した。城の近くを流れる足守川の東・蛙ヶ鼻から全長約3km、高さ約7mの堤防を築き、そこに足守川の水を引き込むことで、備中高松城を水の中に取り残された浮城にしてしまったのだ。この築堤工事はわずか12日間で完成したと伝えられている。援軍に駆け付けた毛利氏側の武将、小早川隆景、吉川元春らは、孤立する備中高松城の状況を前に為す術もなかった。

地図

浸水した備中高松城(イメージ)

浸水した備中高松城(イメージ)


「光秀を討てば、天下が回ってきましょうぞ。」

講和をめぐる駆け引き

孤立した備中高松城の城兵を見殺しにすることはできない。毛利氏方は、ついに秀吉に対して講和を申し入れた。
城兵の安全と中国5か国の譲渡を講和の条件として申し入れるものの、清水宗治の切腹にこだわった秀吉はこれを拒否。交渉はいったん物別れに終わる。

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「本能寺の変」と緊迫する情報戦

まさにそのとき、秀吉のもとに急報が入った。
京都にいる信長が明智光秀の謀反によって命を落としたというのだ。世にいう「本能寺の変」である。事態を知り、ひどく落ち込む秀吉に対して、黒田官兵衛は「光秀を討てば、天下が回ってきましょうぞ」と鼓舞。秀吉は、信長落命の事実を毛利方に知られることなく、一刻も早く和睦を結ぶべく動き始める。

「武士の名を 高松の苔に残して」

武士としての大義に生きた清水宗治 戦の終焉

秀吉は、毛利方に「3日中に和睦を結べば領土については譲歩する。宗治の首を差し出せば、城兵を助ける」という条件を提示。この条件を聞いた宗治は、自分の命により主君を安泰にし、部下の命を助けることができるのならば、自らの首など安いものだと述べ、自害を決意する。
戦の終わりが近づいていた。別れの宴を行った後、自らの城を取り囲む水の上へと小舟に乗って漕ぎ出した宗治。船上で舞を踊り、美しい辞世の句を詠むと、宗治は切腹した。秀吉は宗治の最後を見届けると、武士の鑑として宗治を称賛し、礼をつくして葬ったという。
そして、信長の仇を討つべく、京都に向けて全軍を差し向ける。「中国大返し」の始まりである。

浮世をば/今こそ渡れ/武士の/名を高松の/苔に残して

周辺の観光スポット

黒田官兵衛ゆかりの地 高松城址公園資料館運営委員会

【所蔵品提供クレジット】
□豊臣秀吉像(高台寺所蔵) □毛利輝元像(毛利博物館蔵)HP:http://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/
□黒田如水像(福岡市美術館蔵(黒田資料)) □清水宗治像(林信男氏所蔵)


※ 本ページの内容は一定の調査に基づいて制作していますが、歴史認識には様々な捉え方がある旨ご了承ください。
※ 高松城水攻めの詳細については諸説あり、不明な点も数多くあります。

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